2007年8月6日月曜日

バイクに乗り続けると言うこと

この日夕刻、英蟯虫より携帯にメール。「K君が通勤時にバイク事故。意識は有るみたい。足を骨折」との事。続報を待つも連絡が途絶えてしまい、肝心な重態か重症かの区別が分からない。単身赴任生活が続いている私にとって、夜から移動なので移動中の新幹線の駅から本人の携帯電話に電話をしてみるも案の定留守電になっていたが、本人の状態が如何なものか聞きたい旨を吹き込む。晩遅くになって奥様よりメールで返信あり、K君自身はICUに居り命に別状が無い旨を頂く。幸いにして命に別状が無い旨は解ったのだが、今度は文面のICUと言う言葉に怪我の深刻さと不安が覗いていて、やはり気が気でなくなる。こういった時の家族の気持ちとはどうなのだろうかと想像して、こちらの気も重くなる。



この数日前の事だったと思う。偶然にもバイクに乗り続ける事は難しいか簡単かと言う事を英蟯虫とメールで話し合った事があった。その時、私は「バイクに乗り続けることは物理的には案外簡単なのだろうが、年齢を重ねるにつれ怖さとの葛藤となり、それを乗り越えなければ乗り続けられないのも事実」と言う旨の事を書いたと記憶している。



怖さとの葛藤。バイクに乗り続けるのは正直この克服から始まるといって良いと思う。そしてその怖さは年齢を重ね、バイクに乗り続ける経験や時間が長くなればなるほど、経験した時以上に恐ろしく感じたり、リアルに記憶が蘇ってしまったりする。自分自身の経験から言えば、40歳を超えた辺りから益々その感覚が強い。特に死に対する恐怖は30歳代ではあまり意識もしなかったが、40歳と言う人生の峠を超えてしまうと嫌でも根底に死生観みたいな事を意識してしまうのかも知れない。



また、家族の存在も大きい。単身の頃はバイクなんてものは自分ひとりで乗る訳だから事故ろうが転ぼうが友人を含めて他人様には最終的には関係の無いことだと言う意識が強かったものだが、、。家族が出来ればそう言う訳にも行かず。乗るなと言われれば腹も立つし、理解を得ようと説得もする。だが乗ってみたことの無い人にとってバイクに乗り続けること等と言う事は、長い家族生活では何の意味も無いことだ。特に配偶者(この場合は男から見た女房)にとっては、バイクみたいな家族生活に何の幸福をももたらすことの無い存在の為に、当然、何時なんどき自分の配偶者が死ぬか解らないリスクを抱えたくは無いだろう。その辺りは特に女性は現実的だ。



私の場合、乗り始めて早や23年が経過したが、乗り続ける事は恐怖との葛藤から来る自己矛盾でもある。結婚して子供が出来、乗る時間も回数も極端に減った。そしてこんな事は若い頃は無かった事だが、乗ると決めた前は只管恐怖で乗り始めるまで何度も下痢をしたりもする。乗ってしまえば恐怖を忘れ去るのだが、一歩間違えば死に直結していた乗り方をしてしまった後など、ふと子供の事を思い出したりして自己嫌悪に陥ったりもする。まぁもしかすれば、恐怖を感じては自分の生を確かめる、リストカットみたいな一面が自分のバイクに乗り続けると言う行為の意味には有るのかも知れないと思う。単純にバイクに乗る、乗り続けると言うが、結構難しいものだ。と言うのが私の結論だ。



私より10年は若いK君には早く快復してもらいたいと切に思う。そして完治した暁に、きっと葛藤が訪れる時期が来るだろう。その時の彼の判断を友人としては尊重し、見守りたいと思う。